
クマが山から降りてきたのではない
「私たちが山のことを忘れただけかもしれない」
最近、街にクマが出る。
ニュースを見るたびに、私たちは言う。
「怖い」
「なんでこんなところに」
「山に帰ってほしい」
たしかに怖い。
これは本当に怖い。
家の裏山で目撃情報が出たら、もうニュースではない。
それは生活圏の話になる。
洗濯物を干すとき、ふと山を見る。
夜、物音がすると少し耳を澄ます。
「まさか」と思いながら、その「まさか」が前より少し現実に近い。
クマは怖い。
でも、少しだけ意地悪な言い方をすれば、私たちは怖がるのが得意すぎる。
「クマが出た」
「危ない」
「駆除すべきだ」
「かわいそうだ」
「いや人命が優先だ」
そこで話がぐるぐる回る。
もちろん、人の命は最優先だ。
家の近くにクマが出たら、きれいごとだけでは済まない。
ただ、その一方で、私たちはあまり聞かない。
なぜクマは、そこに来たのか。
クマが突然、会議を開いて、
「今年から人里進出戦略でいきましょう」
と決めたわけではない。
山に食べ物が少ない。
人の少ない里山が増える。
耕作放棄地が藪になる。
柿や栗が放置される。
人間のにおいの近くに、食べ物のにおいがある。
そして、昔ほど人間を怖がらないクマが出てくる。
そうして境界線が薄くなる。
山と町のあいだには、本当は線があった。
田んぼがあり、畑があり、人の手が入った里山があり、草刈りがあり、犬の声があり、農作業の気配があった。
そこは単なる自然ではなく、人間と野生のあいだの緩衝地帯だった。
でも、その緩衝地帯が静かに消えている。
人が減る。
畑が荒れる。
道が草に埋もれる。
山が近づく。
いや、正確には山が近づいたのではない。
人間の側が、山とのあいだにあった暮らしの層を、少しずつ手放してきたのだ。
そしてある日、クマが出る。
私たちは驚く。
「こんなところにまで」
でも、クマからすれば、こうかもしれない。
「ここ、もう山みたいでしたけど」
この一言は、ちょっと怖い。
私たちは地図を見ている。
ここからここまでが人間の場所。
ここから先が山。
そう思っている。
でもクマは地図を見ない。
においを見る。
藪を見る。
果実を見る。
人の気配の薄さを見る。
そして、境界線を判断する。
つまり、人間の地図では町でも、クマの感覚ではすでに山の続きになっている場所がある。
ここに、現代の怖さがある。
クマが凶暴化した、という話だけではない。
私たちの暮らしの輪郭が、知らないうちにぼやけている。
地方では人が減り、山を知る人も減った。
猟師も減った。
草を刈る人も減った。
畑を守る人も減った。
「この時期はここに気をつけろ」と言える人も減った。
そして私たちは、スマホでクマ出没情報を見る。
昔は山を見ていた。
今は通知を見る。
もちろん通知は大事だ。
でも、通知が鳴った時点で、もうクマは近い。
本当は、その前に見るべきものがあったのかもしれない。
山の実り。
里山の荒れ方。
放置された果樹。
人の通らなくなった道。
地域から消えていく作業の音。
クマは、そういうものの結果として現れる。
言い換えれば、クマは山からの使者ではない。
もっと嫌な言い方をすれば、請求書である。
「あなたたちが見ないことにしてきた山の管理費です」
そう言われているような気がする。
もちろん、クマに襲われる人が悪いわけではない。
そんな話ではまったくない。
悪いのは、誰か一人ではない。
人口減少。
農業の衰退。
気候変動。
獣害対策の人手不足。
野生動物との距離感を失った社会。
いろいろなものが、少しずつ積み重なっている。
その結果が、ある朝の目撃情報になる。
「裏山でクマが出ました」
この一文は短い。
でも、その後ろには長い物語がある。
山の話。
人が減った集落の話。
手入れされなくなった土地の話。
実りの悪い森の話。
そして、便利な生活の中で自然との距離感を忘れた私たちの話。
クマが怖い。
それは正しい。
でも、怖い怖いと言うだけでは、たぶん次もまた怖い。
本当に怖いのは、クマそのものだけではない。
クマが出るまで、私たちが何も見ていなかったことだ。
山は突然、町に現れたのではない。
静かに、少しずつ、近づいていた。
いや、近づいていることに、私たちが気づかなかった。
そして今日も、裏山は黙っている。
その沈黙の奥で、何かが動いた気がして、私たちはようやく窓の外を見る。