
主食が、そっと高級食材の顔をしはじめた
日本人にとって、お米は少し特別な存在だ。
パンも食べる。
麺も食べる。
パスタも食べる。
でも、最後に「やっぱりご飯が落ち着く」と言う。
お米は、ただの炭水化物ではない。
朝ごはんであり、お弁当であり、おにぎりであり、定食の中心であり、なんとなく「ちゃんと食べた気がする」ための土台でもある。
そんなお米が、じわじわ高くなった。
高級牛肉が高いのは分かる。
うなぎが高いのも、まあ分かる。
メロンが高いのも、そういう世界だと思える。
でも、お米が高い。
これは少し、気持ちの置き場所に困る。
なぜならお米は、日本人の感覚の中では「贅沢品」ではなく「生活の床」みたいなものだからだ。
床が高級素材になってしまうと、急に家全体の落ち着きがなくなる。
スーパーで米袋を見る。
5kgの価格を見る。
少しだけ目をそらす。
そして、隣のパンや麺を見る。
ここで起きているのは、単なる節約ではない。
「日本人とお米」の関係が、少しだけ変わっている。
昔なら、お米は食卓の前提だった。
「今日は何を食べる?」と聞くとき、その背景にはだいたい白いご飯がいた。
焼き魚にご飯。
味噌汁にご飯。
から揚げにご飯。
カレーにも、当然ご飯。
ご飯は主役にも脇役にもなれる、食卓の名バイプレイヤーだった。
ところが価格が上がると、そのご飯が急に発言力を持ちはじめる。
「本当に今日、炊きますか?」
「パックご飯にしますか?」
「麺でよくないですか?」
「パンの方が安く済みませんか?」
主食が、家計会議に出席してくるのである。
これはなかなかの事件だ。
お米が高くなると、私たちは初めて気づく。
お米を当たり前だと思っていたことに。
炊飯器に米を入れる。
水を入れる。
スイッチを押す。
湯気が出る。
茶碗によそう。
この何気ない流れが、実はかなり豊かな行為だったのだと分かってくる。
しかも面白いのは、日本はずっと「米の国」という顔をしてきたことだ。
田んぼの風景。
新米の季節。
おにぎり専門店。
旅館の朝ごはん。
「日本人なら米」という、少し古いけれど根強いイメージ。
ところが現実には、価格が上がれば人は買い控える。
どれだけ文化的に大事でも、財布はかなり正直である。
「米は日本の心です」
と言いながら、レジ前ではこうなる。
「でも、今週はうどんで」
この身もふたもなさが、少し現代的である。
私たちは文化を愛している。
でも、生活費には勝てない。
そしてお米の価格高騰は、農業だけの話でもない。
天候、流通、需要、インバウンド、備蓄、政策、輸入、燃料費。
いろいろな要素が絡み合って、最後にスーパーの米袋の値札として現れる。
つまり、私たちは米袋を買っているようで、実は日本の食料政策の結果を持ち帰っている。
重い。
5kgの米袋は、物理的にも社会的にも重い。
ただ、お米が高くなったことで、逆にお米の価値が見えたとも言える。
安いとき、人はありがたみを忘れる。
いつでも買えると思う。
なくならないと思う。
炊飯器の中に、いつも白いご飯があると思う。
でも高くなると、急に一粒一粒が少し立派に見える。
茶碗の中のご飯が、前よりも静かに主張してくる。
「私は、そんなに当たり前ではありませんよ」と。
これは少し怖い。
でも、少し大事なことでもある。
お米の国で、お米がぜいたく品になる日。
それは単に物価が上がった日ではない。
私たちが「当たり前」と呼んでいたものが、実は天候と農家と物流と政策と家計の上に、ぎりぎり乗っていたのだと気づく日だ。
今日もどこかで、誰かが炊飯器のふたを開ける。
湯気が上がる。
白いご飯がある。
それは普通の風景に見える。
でも今は少しだけ、ありがたく見える。
お米は静かだ。
何も言わず、茶碗の中にいる。
けれど高くなった瞬間、私たちはようやく気づく。
この白い粒たちは、ずっと日本の食卓を支えていたのだと。